INTERVIEW 16 大口純一郎 JUNICHIRO OHKUCHI

1949年生まれ、東京都出身。ピアニスト。幼少時代ロンドンに在住、クラシックに親しみ、独学でピアノを学ぶ。ビル・エバンス、アントニオ・カルロス・ジョビンに影響を受け、大学を卒業と同時にプロとしての道を歩み始める。ジャズにとどまらずブラジル音楽にも精通し、現在も精力的にライブ活動を展開している。

ジャズとは無縁だった幼少時代
『ユーモレスク』がすべてのはじまりだった

[P] ENZO / [TEXT] ENZO

音楽好きな少年はどのようにして日本を代表するジャズピアニストになったのか。
クラシックに親しみピアノを始めた幼少時代から、ジャズに目覚めた大学時代、そしてプロとしてどう生きてきたのか。大口純一郎さんにお話をうかがった(前編)

先生につかず、独学で始めたピアノ
練習のための練習ではなく、好きな曲を好きなように

――今日は日本を代表するジャズピアニスト大口さんにお越しいただきました。大口さんの歩んでこられた、ピアノ人生を紐解かせて頂ければと思います。

いやいやいや。そんな大したものじゃないけれど。

――若い世代に向けて、なにか伝えていくプロジェクトなどはありますか?

ライブで弾くということが伝えることになるとは思うけど。でも、はじめてな試みとしては、今度アメリカのカレッジで演奏する予定があるんだ。

――アメリカのカレッジで?

早稲田大学の先生と、そのご主人であるアメリカ人のカレッジの先生が、音楽を通じて世界と交流するプロジェクトを立ち上げてくれて。ピアノのオレと、ギタリストの橋本信二さん、ヴォーカリストの梶原まり子さんで、アメリカのカレッジをまわって演奏してくるよ。

――アメリカで生まれたジャズの逆輸入みたいな感じですね?

そうだね。「ちょっとオレにもやらせろ」っていってくるヤツが出てくるかもしれないし、どんな反応が返ってくるのかまったく未知数。
彼らがジャズとどう関わっているのか、そういうこともオレたちにはわからない。だから、今からすごい楽しみなんだよ。

――確かに、どんな反応があるのか楽しみですね! ちなみに、大口さんは子どもの頃からジャズに興味があったんですか?

いや、まったく知らなかったよ。最初はクラシックだった。
東京の幼稚園に通っていたとき、担任だった先生が、ドボルザークの『ユーモレスク』を毎日弾いていたんだけど。西洋っぽい造りの木造の建物に、音がよく響いて。その曲とピアノの音色がとても印象に残ってね。

――そこから大口さんのピアノ人生が始まった?

そうだね。その後、親の仕事の都合でロンドンに行くんだけど、ガキだったから街に遊びに行くこともできず。そうしたら、中古のピアノを買ってくれて。おかげで始めたばかりのピアノの続きをすることができた。親に感謝しているよ。

――ロンドンでは、どんな子ども時代を過ごされたんですか?

ロンドンにいたのは6歳から10歳ぐらい。しつけの厳しい私立の学校で。とにかく早く英語をマスターする、というのが絶対要請だったので、緊張の日々だったよ。
そこは人種もいろいろで、お金持ちもいたんだけど、地元のブルーカラーの子どもも通ってて。ただ、あつかいはみんな平等で差別をしない。校長夫妻が立派だったんだよね。

――素敵な学校だったんですね。

オレはその校長先生が好きだったんだよ。校長夫人は“赤毛のアン”みたいなおばさんで。朝の集会では、生徒みんなで何番って決めて賛美歌を歌うのがあって、その夫人がピアノを弾くんだけど、それがなかなかいいんだ。ゴツゴツしていて、力強いの。

――学校以外での生活は?

家と学校は離れているから友達もいないし、父親が音楽を聴くのが好きだったから、よくレコードを聴いていたよ。だから、オレの文化の入り口っていえば、父親のかけるレコードだった。

――先生につかずに独学でピアノを始められたんですね?

レコードを聴いて良い曲だなと思うと、父親が楽譜を買ってきてくれてね。
日本だと指の練習になるような曲をやるのが一般的だけど、オレは先生がいないから好きな曲をやってた。

――好きな曲を練習し続けたことが、表現の訓練になった?

どうだろうね。テクニカルな部分でつまづかないように、指の訓練をするのは必要なことだけど、その頃にしかない情感っていうのが実はあるきがして。指の訓練が行き届かない部分はあったけど、世界のいろいろなメロディーを知りたいと思う感覚の基礎は、その頃できて来たのかもしれないね、いま思い出してみると。

「ずっとピアノをやってきて、何が出来るかわからないけど、
好きな音楽でなにか出来たらいいなって思ったんだ」

――クラシックはいつまで弾いていたんですか?

日本に帰ってきてから高校3年まで。そのあと、浪人しているときに、ビル・エバンスとアントニオ・カルロス・ジョビンにはまっちゃったんだよ。

――ジョビンといえばブラジル音楽ですね?

そう。当時、ジョビンの『WAVE』がドーナツ盤で出た頃でさ、浪人生だったから本屋によく行くんだけど、その本屋に続いているレコード屋で毎日かかってるわけ。気になって気になって。とうとう買っちゃって、朝から晩まで聞いてた。それでオレはジョビンのギターにはまって、家にギターがあったから一生懸命コードとって。だから、コードは最初ギターで覚えた。

――ピアノではなくギターで?

ギターのコードってピアノほどたくさん音積めないじゃない。一番ベーシックなところですごい勉強になったね。
当時はコピー集なんてなかったから、全部、自分で音をとっていて。ジョビンはベース音を基本的に入れないので、だいたい音が3つ。動き方がすごい綺麗でリズムが気持ちいい。そうするとはまるよね。ギターっていい音だしさ。
ジョビンにはすごい影響を受けてるよ。足向けて寝れない(笑)

――その頃すでにプロになろうと思っていたんですか?

いや、その頃は別にプロになろうなんて思ってなくてさ。だから、東工大でジャズ研に入ったのも3年のとき。

――てっきり、大学に入学してすぐにジャズ研に入ったんだと思っていました。きっかけみたいなものってあるんですか?

オレが大学に入った当時は、学生運動が真っ盛りだった頃なんだけど、「アフリカでは飢饉とか内戦とかがあって、何分にひとり、子供が死んでいる。お前は大学に入ってのうのうと生活してるけど、行動を起こせ。将来なにをやるんだ?」って突っ込んでくるヤツがいて。
オレは三日三晩考えちゃってさ。それで、数学とか物理とかは、もっと得意なヤツにまかせて、オレは出来るかどうかわからないけど、ずっとピアノを弾いてきたから、プロになって好きな音楽で世の中になにか出来たらいいなって考えるようになったんだ。

――ジャズ研に入られてから何か変わりましたか?

今までずっとひとりで弾いてきたからさ、3人とか4人のバンドで演奏することで、音楽的にすごい視野が広がった気がするよ。だって生の音だからね。楽しかったよ。
東工大のジャズ研は弱小で、バンドをふたつも組むとほぼ全員に番がまわってくるから、入った当初から毎日セッションしてた。

――弱小だったんですか?

だって早稲田や慶応のジャズ研とかは、人数も多くて、優秀なやつもいっぱいいて。レギュラーと、それに続く2軍というか、その人数も多くて、オレみたいに3年の途中から入ったようなヤツは、とてもレギュラーになんかなれない。
それにくらべて東工大のジャズ研は、とびきりうまい人はいないけど、みんな自分と向き合っている感じがとても良かったね。

――人数が少なくても演奏はピカイチだったとか?

オレが入っていたバンドと、もうひとつシニアのバンドがあって。そのバンドとか、かっこいい音を出してたよ。
大好きな先輩がいたんだけど、その人、変わり者でね。譜面読めないの。でも、いいラッパ吹いてたんだよ。聞き覚えでさ。歌全体を覚えて、その雰囲気でやってるわけ。ウマくはないんだけど、でも一番大事にしているものでやるっていうか、それしかないっていうか。あの頃はおもしろかったよ。

――どんなところで演奏されてたんですか?

渋谷のオスカーってジャズ喫茶で、日曜日にいろんな学校のジャズ研が、30分ずつくらい演奏させてもらってたんだよ。
でも、早稲田大学のジャズ研とか、慶応大学のジャズ研とかは優秀だから1日もらったりしてて。そしたら先輩がオスカーの店長にかけあって、直接、演奏を聴いてもらってさ。なんと弱小の東工大のジャズ研にも1日くれることになったの。

――先輩も思い切りましたね。

オレなんかジャズ研に入ったばかりで何も弾けない頃だよ。大変なことになったって、もう青くなって。後にも先にもないくらい練習に精を出した。
一応、オフィシャルで演奏するわけだし、みんな必死に練習したよ。しかも、オレは心のどこかでプロになろうと思ってるわけだから、頑張るよね。良い機会をもらったよ。

――今でもジャズ研のメンバーとは交流はあるんですか?

阿佐ヶ谷ジャズでさ、東工大のジャズ研はプログラムの端っこの方に載る感じでやってるんだけど、現役もOBも出るのよ。オレなんか卒業して40何年たってるから、OBでも10歳下とか30歳下とかたくさんいるんだよ。結構ウマいやつもいて、あんな弱小ジャズ研がつぶれることもなく、ずーっと続いてるの。
卒業してプロになったのはオレが第一号でさ、だからオレが会長やってるんだけど、好きだからこそやってるアマチュアのバンドって、すっごい大事だし、大切だと思う。

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