INTERVIEW 17 大口純一郎 JUNICHIRO OHKUCHI

1949年生まれ、東京都出身。ピアニスト。幼少時代ロンドンに在住、クラシックに親しみ、独学でピアノを学ぶ。ビル・エバンス、アントニオ・カルロス・ジョビンに影響を受け、大学を卒業と同時にプロとしての道を歩み始める。ジャズにとどまらずブラジル音楽にも精通し、現在も精力的にライブ活動を展開している。

歩み始めたプロの道
演奏で広がる人とのつながり

[P] ENZO / [TEXT] ENZO

音楽好きな少年はどのようにして日本を代表するジャズピアニストになったのか。クラシックに親しみピアノを始めた幼少時代からジャズに目覚めた大学時代、そしてプロとしてどう生きてきたのか、大口純一郎さんにお話をうかがった。(後編)

24歳の春、プロになろうと決めた
弱小ジャズ研出身、人脈ゼロからのスタート

――大学3年生からジャズ研に入って腕を磨かれていたそうですが、卒業されてからは?

ずっと心のどこかで音楽でやっていこうと思ってたからさ、卒業した24歳の春、プロになろうって決めた。「自分はこれからプロだ」って。

――当時のジャズシーンは盛り上がっていたんですか?

すごい盛り上がってたね。当時はジョージ大塚バンドとか、渡辺貞夫バンド、本田竹広バンドとかさ。今では伝説みたいになってる、一世を風靡しているバンドがいっぱいあったよ。

――プロになってどういう活動をされたんですか?

ジャズ研の強い大学とかって、先輩でプロになっている人とかいっぱいいるでしょ。でも、東工大を卒業してもプロの先輩は皆無だし人脈がなくて、親も心配だろうしホントに困った。

――人脈がないところからのスタートはきついですね。どうされたんですか?

いろんなクラブに、「ピアノ弾きたいんだけど」といいに行って、夜中の時間帯で弾くクラブの仕事を見つけたんだけど。でも、初心者のオレでもちょっと納得がいきかねるバンドで。
でも、そこでのオレの演奏を聴いた人から声をかけてもらって、「ねのはこ」というレストランで弾くようになって。

――ライブシーンとは違うんですね?

そう。ライブシーンとは違って、レストランだからお客さんは食事しに来ているわけで。BGMとして演奏するんだよ。
その「ねのはこ」ってレストランで弾いているときに、渡辺貞夫さんのバンドを抜けた、弟さんのドラマー、渡辺文男さんが来て一緒に演奏することになったんだ。
文男さんは、休憩時間にかかっているムードミュージックのカセットを、チャーリー・パーカーとかに勝手に変えちゃうんだよ。「アンソロポロジー」とか、おもしろかったなあ。
文男さんはピアノを弾かないけど、すばらしいリズム感覚の持ち主で、パーカーの演奏に合わせてカウンターでピアノのコンピングをしながらメロディーを歌ってくれる。すると、実際のピアノの生き生きとしたコンピングの音が、想像して聴こえてくるんだ。歌にあふれた人だよ。
そんな調子で文男さんには3か月ほど毎日勉強させて頂きました。またまた良い機会をいただいて、めぐまれてると思ったよ。

――渡辺文男さんとの出会いはとても大切だったんですね?

そう。文男さんは、オレにとってジャズの最初の師匠。オレが文男さんにコンピングしてもらったのを2、3日で曲がりなりにも覚えてもってくとさ、「お、こいつやる気だな」って、文男さんもどんどんやる気になって。
後から聞いた話だけど、学生あがりのまだ何も弾けないオレと組まされて、文男さんも最初は「あ~あ」って思ってたらしいんだけど。

――その後、ライブシーンへと進まれたきっかけは?

当時、「ねのはこ」には、文男さんもいたし、いろいろなミュージシャンが遊びに来ていて。オレはベースの水橋孝さんに誘われて、彼のバンドでピットインの夜の部で弾きはじめたんだ。当時、朝の部や昼の部でも弾いていたので、その頃から他のミュージシャンの演奏もよく聴いたよ。出番が終わっても、そのままピットインに残って。
そのあと、サックスの大友義雄さんのバンドに参加して。「ドラムは文男さんがいい」って大友さんがいうから、オレが誘いに行って、それで文男さんはライブシーンに復活したんだよ。

――渡辺文男さんのバンドにも参加されてましたよね?

大友義雄さんのバンドのあと、文男さんも自分のバンドを作ってさ。『FUMIO』ってレコードの録音まで一緒にやってたよ。その録音は大田寛二さんとふたりで半々くらいで弾いて。
最初は人脈なんてまったくなかったんだけど、場面々々で人と出会って、またつながって。そのあともドラムの古澤良治郎さんに誘われて。ドラムリーダーに縁があるんだよね、オレは。

――ブラジル音楽の活動はその頃から?

古澤さんって人はとても見識の広い人で、日本でレゲエとか流行る前からいち早く着目していて。彼はいわゆるカッコいい作品を作ろうとするのではないけど、キャッチーで親しみやすい曲をたくさん作って、それをレゲエやサンバのリズムにのせて演奏していたんだ。4ビートジャズではないけれど、その頃のミュージックシーンの一角を占めていたよ。ベースの川端民生さんとかと一緒に。
それから1982~83年の頃、小野リサさんとバンドをやらないかっていう話になって、四谷のサッシペレレという店に入り浸りながら、ブラジル音楽を再びどっぷりやることになったの。
ブラジル音楽でピアノをどう弾くのか、雰囲気はわかってるんだけど、リズムのこととか具体的にはよくわからないから、ブラジル人ピアニストのライブとか、そのお店にほとんど毎日聴きに行ってた。

ピアノがうまくなりたくてやっているわけじゃない
ただ好きな音楽を、自分の好きなように

――人との出会いがあって、次のステージへと登っていかれましたが、音楽をやり続けることの大変さみたいなものはありますか?

24歳でプロになるって決めたとき、これだけ好きだって思っていることを途中で、「あ~もうイヤになった」ってなったらどうしようかと、それがいちばん心配だった。
でも、幸いにもそんなことはまったくなくて、興味が減るどころかどんどん増えてきちゃって。

――興味が増えすぎて大変なんですね?

あれもこれもになっちゃって、でも心は幸せだったよ。
ひとついいたいのは、オレはたまたまピアノという楽器に親しんできたからピアノでやってるけど、ピアノがうまくなりたくてやってるわけじゃないんだ。好きな音楽を自分のその時々で納得できるトーン、音色で自分の好きなものを表現したい。つまり、表現にいちばん大切なのはトーンということになるね。

――今後の抱負をお聞かせください。

具体的なリリース予定はないんだけど、もっと人数が多い編成の、それも木管楽器みたいな柔らかい響きや弦楽器とか、アレンジも含めて書いて、それを作品として録音していきたい。今まで自分が書いた曲も違う編成でやってみたら、おもしろそーだなって。

――若いジャズマンにアドバイスがあれば?

今はレベル自体も上がっているし、ジャズをやっている人も多いからね。
とにかく能力主義にかたよることなく、自分の「好き」をつねにピカピカに磨いて進む。同時に共演者の音を、楽器の演奏としても話としても聴く。おもしろいと思ったことをちゃんと覚えていること。
オレの経験では、張りつめた緊張感とフィジカルにリラックスしていることが、共存している状態が最高で。その状態だと共演者からも自分からも、はじめて聴くような音がでてきたりするんだ。
駆け出しのころ、ジャッキー・マクリーンとビリー・ヒギンズと、一夜の共演の時にそれを体験して以来、大切に思っています。エルビン・ジョーンズとリチャード・デイビスとの共演の時も同様の体験をしました。
組み立てられている音楽の大きさに、ただただ感動して、世界はこんなにも大きくて素晴らしいんだ! と心の底から思ったのが、いまでも演奏や作曲、アレンジに向かう心意気、勇気のみなもとになっています。

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